蕎麦屋の出前

　「そば屋の出前」というのは一種の諺（？）になっている。出前を頼んだのになかなか来ないので、「どうなってる？」ときくと、「今出たところです」といって誤魔化すという事であるが、そば屋もそば屋なりの事情がある。まあ、昼飯時などに店の客にそばを出しながら、出前をするのであるから大変である。
　以前、このコーナーで紹介した、世界一速いトンカツ屋というのがあった。今回、ここで紹介するのはある意味それとは正反対の遅い遅いそば屋である。まあ、そこが世界一遅いとはいえないとは思う。というのも、以前、コーヒー一杯が出てくるのに１時間も待ったという店もあったので、世界一遅いというと途方もなく遅いものはまだまだある。しかし、そのそば屋は単に遅いだけではない凄さがあるのだ。
　その店にはよく昼飯時に行ったのだが、まず、いつ行ってもメチャクチャ混んでいる。これは商売繁盛でいいことだ。しかし、どんなに混んでいても、座るまで待つということはなかった。無理やり座らせてしまうのである。３人がけのテーブルに椅子を追加して最大５人は座らせてしまう。客の出入りにはタイムラグがあるので、５人座っていてもそのうち先にきた客が食事を終えて帰るので、テーブルに皿がのりきらないということはまずない。このあたり、やはり絶妙のワザなのであろうか。一度入った客が座りきれず、しかなたく出ていってしまうということがないので、売上増大、商売繁盛というわけだ。
　その店は二階建てであったから満員となったときの客の数たるや半端ではないのである。しかし、もっとも驚くのはそばを作っているのはオヤジ一人である、という事実である。混んでいるので厨房が見える場所に座ることはあまりなかったのであるが、ごく稀に厨房が見える場所にすわると、オヤジがほとんど鬼の形相でソバを作っている。物凄い勢いだ。しかも驚くことにそのオヤジは自ら出前もする。鬼の形相でソバを作っていたかと思えば、「ちょっといってくる」といってソバをバイクの後ろにのせて自ら出前に行くのである。その勢いも物凄い。一瞬にしてバイクの音が聞こえなくなるくらいであるから、よくあんな勢いでそばがこぼれないものだと感心する。それで、すぐに出前から帰ってきてまたそばを作り始めるという具合である。
　まあ、そんなわけだから、注文してから出てくるまでには相当な時間を覚悟しなくてはならない。平均して３０分。遅いときは４０分〜５０分くらいは待つ。しかし、それだけの時間でちゃんと出てくるというのはある意味驚異である。
　しかし、もっと驚いた事がある。それは、ある日の昼飯時のこと、私はそのソバ屋からはかなり遠い店で昼飯を食べていた。食べ終わって店を出ると、向こうから物凄い勢いでやってくるバイクがある。みると、そのソバ屋のオヤジの出前のバイクであった。ソバ屋からは歩いて３０分はあろうかという場所だっただけにたいそう驚いた。そのバイクは目の前を物凄い勢いで通り過ぎていった。
　私は一緒にいた友人と顔を見合わせ、「あんな遠くまで出前しているから遅いんだよなぁ」とはいったものの、その商魂のたくましさは尊敬せざるをえない。

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